個展のお礼もちゃんとできていないまま、
タリーズ個展搬出9時間後には、新しい仕事=新生活が始まった。

早く新しい仕事に慣れたい一心で、空っぽの頭を無理矢理フル回転させ、もはやショートしかかって煙が出ている最中に、

突然、青森から祖母が危篤だと連絡がきた。

新幹線で帰ればいいのか!? バスで帰るがベターか!?
考えているうちに、あっという間に亡くなった。

 

あまりにも不意打ちであった。

そして、この祖母の死は、このカオスであった7年間の終止符のようなものにも感じられた。

 

7年前、二人暮らしの祖父母が、同時に介護が必要になったとかで、

「それでなくても二人とも変わっているのに、お母さん一人で二人を面倒見るなんて発狂しそうよ!」

という旨のお電話を母上から頂戴し、、(当時、わたくしは東京にてキャンパスライフを送っていた)

大学休学中、なぜか、母と、青森で、祖父母の日々の病院の送り迎え及び、身の回りのお世話をすることとなった。

 

事業家の祖父は、ビジネスや政治や地域経済や文化に対する見聞は超人的であったけれども、生活力はゼロに近く、
祖母がいなければ何もできない人であった。

祖母は祖母で、お茶や習字や日本庭園作りの美的感覚に溢れ、ご本人も美しかったが、同時に、とてもとても頑固であったため、断固として自分の認知症を認めず、

階段でつまずいたり、ストーブの火を付けっ放しにしたり、かなり問題が起きてきても、
「絶対に人様の面倒にはならず、どうなってでも死ぬまで祖父と家で二人暮らしをする!」という大宣言をしていた。

 

そんなわけで、いつも病院の送り迎えの車内は、

譲らない祖母 vs 心配して何とかしたい母
& 全く関係ない話をし続ける祖父 & 既に人生に疲れていた私

という、かなりのカオスな構図であった。

目の前のことに興味がない祖父は、
妻と娘が言い合っていることよりも、
日本や世界の未来を憂いでおり、

「茜ちゃん、私はもう、坂の上の雲にいく準備ができてるんじゃ。日本の未来は託したぞ。」

と、達観を通り越して達観していたので、
私は、車の中で、
母と祖母が繰り広げる介護戦場の片隅で、
なぜか、祖父から本当の戦争時代の話や、政治の話をよく聞かされていた。笑

そして、二人を何とか家に送り届けた後は、発狂しかかっている母に、
“まぁまぁまぁ”と、言うのが、あの頃の日課であった。

そうこうしているうちに、東日本大震災がおきて、直後に私は復学と就職が同時に決まって東京に戻り、その後、母は癌になり、祖父も老いて、気がつけば二人とも先に亡くなった。

祖母には亡くなったことを教えても混乱させるNGという理由で、母はずっと入院しているということとなり、ここ何年かは、

帰省する度に施設を訪ねても、

祖母: どちら様ですか?

私: おばあちゃん、茜だよ。

(数秒後)

祖母: どちら様ですか?

という、高貴で頑固な雰囲気は変わらないけれども、誰のこともわからない様子であった。

だから今頃、もしあの世にクリアな記憶でいけたのであれば、まさかの向こうで実の娘や夫に再会できる嬉しいサプライズに対面しているはずなのである。

葬式で、親戚に、
「茜ちゃんは、一番可愛がられて良かったわね」
と度々、お声がけいただいたけれども、

祖母が亡くなったことで、あの頃、一緒に車に乗っていたメンバーが、私以外、これでみんな逝ってしまった、という事実は、何だかとても奇妙な気分で…

一番可愛がられて、密に一緒に過ごした時間も多い分、もはや私しか知らない思い出たちは、この先、どう消化していけば良いのだろうかと、思ったりもする。

 

斎場の大きな窓からは、しんしんと上から下に舞い続ける粉雪。

ブツブツ言い合っていたわりには、
祖母も母も、親子そろって、
季節外れの雪深い日に、旅立っていったなと。。

 

どうかどうか、向こうで楽しくやっていてくれますように。笑