3月11日だし、本日は、何か東北に関係することをしようと思った(わけでもなかったのだがw)

仙台が舞台の映画を観た

だいぶ古いが、「アヒルと鴨のコインロッカー」

伊坂幸太郎原作の時点で気がつくべきだったのだが、

前半は笑うところが沢山あったが、

後半はティッシュとハンカチが必要な勢いで、

観終わってからの、心の張り裂け具合といったらもう…

せっかくの久しぶりの家にいられる休日が切なさでいっぱいに…

 

洗濯して、掃除をして、いつから積み上げてるんだよ!みたいな書類やら本を分別して、、

日も暮れはじめた頃から散歩をした

 

吉祥寺は、今日もごった返していたので、

人のいない住宅街をぶらぶらしていた

7年って、響きが長いなぁと

26歳から27歳にになった時に、

突然アラサーになったことを実感した時と同じで、

6年と7年では、重みが全然違うなと。

 

7年前の今日は、

こんな未来、全く想像していなかったなぁと

仙台にいた兄も、松島で遊覧船に乗っていた祖母も、

みんな無事で、

無事だったのなら、その形がずっと続くと思っていた

プラハ 2011

3.11当日、私は、両親の退職記念旅行 “退職まで貯金をして夢のチェコへ!!”の添乗員役でなぜかチェコにおり…

(添乗員役なのに到着してから英語が全然通じないということに気がついたが)

文学リサーチと絵本リサーチに忙しい両親の、それぞれの目的を達成するための旅程は

結構なハードスケジュールで

途中、タクシーぼったくりにあいかかって飛び降りることになったり、ホームレスに囲まれたり、

ドイツ語しか通じないエリアで、切符が思うように買えなかったり…

風景に反して、心穏やかな旅ではなかった

モルダウ川

私のミッションは、両親の安全確保&無事に青森まで帰すということであった

「地下鉄で必死に携帯のメモと地図を照らし合わせる日本女子」 撮影者:unknown

だから、旅も終わりに近づき、もうすぐ帰国という朝、ソファで目を覚ました時(添乗員役はソファがベットだったw)

東京の友達から、

「生きてる?」「大丈夫?」

という大量のメッセージが入っていた時は、

「誰かさんがギックリ腰になって、日本までこのスーツケースたちを運べるのかわからないけど大丈夫」

みたいな返信をしかけ…全く話がかみあわなかった

 

ともかく大きな地震がおきて東北がやばいと言われ、

ただ事ではなさそうなので、

ホテルのTVで国際チャンネルを検索し、CNNをつけたら、
濁流に家が押し流されているおぞましい映像と共に、

“BREAKING NEWS Tsunami Sendai, Japan”

….悪い夢だと思った。

ピンポイントで仙台ですかと。。。

仙台をこよなく愛し、自ら何の所縁もない仙台で就職した兄に電話をかけたが

繋がらず…

そのニュースでは、1 victim so far(死者1名確認)みたいなことを言っていたが、

どうみても1人じゃないでしょ!!!!と。。

 

7年前は、今のようにどこに行くにもパソコンを持っていた人ではなかったので、

ともかく日本語のニュースが知りたく、ホテルのパソコンをかりたら、

キーボードも画面もチェコ語で、

文字の入力の仕方すらわからないという…orz

街に出て、入ったレストランの店員さんが英語キーボードらしきノートパソコンをいじっていたので

事情を説明し

やっとNew York TimesのTsunamiの記事をみれたのを覚えている

成田空港は封鎖したらしい。。

カレル橋の近くの、鳥の休憩所で私も休憩した

結局、チェコのお隣の国、スロバキアの友人に頼んで、

彼女の宿舎に泊めさせてもらうことになった

お城にしか見えなかった友人の宿舎

彼女はキリスト教の宿舎に住んでいたので、

そこでは、全員、毎晩、礼拝部屋で礼拝をすることになっており、

そもそも、日本人は私が初めてという皆様が、

東北の人々のために祈りましょうと、

スロバキア語は全くわからなかったが、

夜の薄暗い礼拝部屋に集まって、キャンドルに向かって、

祈ってくれたのを覚えている

礼拝堂。朝は怖くない!!
温かく受け入れてくださった宿舎のみなさん

友人が、何かと助けてくれ
私たちは帰国の途にたどり着くことができた

気がつけば、友人が母のスーツケースを運んでくれるの巻

乗り換え地であったオランダの空港で、新聞を買ったら、

オランダ語が全く理解できないからこそ、
それが今の東北で撮られた写真ということしかわからず、

中を開いたら日本ではモザイクをかけるか掲載NGな写真がそのまま載っており、

ゾッとした

日本のことが書かれているらしいということだけわかった…
一体、どうなっちゃっているのだろうと。。

飛行機の中では、

なぜかトルコ人ばかりの便に乗り合わせ

話しかけられるがままに日本人だと言うと、

周りの人々が、次々と、

機内食に付いていた、お花柄のメッセージカードを

“Pray for Japan”

と言いながら、

くれた。

自分は何の代表でもない、ただの(休学中のw)大学生で、

たまたまこのタイミングで、東北から、東ヨーロッパに両親を連れて旅をしていた

ただ、それだけのことなのだが、
そのカードは今も実家の壁に貼っている。

いつもより地球が小さく感じられた瞬間だったから。

周辺の人々が、なぜかこれをくれた…

成田空港に着いてからの、

空港のパニック具合は想像を超えており、

事前購入していた3人分の東北新幹線チケットは紙切れとなり、

長距離高速バスに乗れたらと思ったら

東北自動車道も壊れたからダメと言われ、

仙台や福島より北上したい人は、飛行機しか手段がなかった…

 

人々の助けのおかげで、

奇跡的に、その日中に帰れる青森空港行きのチケットを買うことができた

aomori

それからの日々は、

やれ計画停電だ、郵便が届かない、パッケージが必要な食品は関東から青森までは届かない…etc

買い占めのようなトラブルはなくても、
日常ではない状態が続いていた

 

りんごジュースだけ常にあった

 

りんごジュースの底力

NHKのニュースで、おそらく関東では首都圏のニュースが入っている時間帯に、
東北では、各東北の県にある放送局からニュースが放送されている

震災がおきる前は、地域の小さなお祭りなんかを放送していたそれはそれは平和な枠だったのだが、

気がついた時には、全国ニュースより、よっぽどリアルな情報が伝えられるようになった

特に、全国ニュースで、「こんなに復興が進んでいます」というポジティブなニュースばかりが強調された直後に、

「支援が行き届いていない」という現地の人々の深刻な声がローカルニュースで流れるのは、どうにかならないものかと思った

東北エリアでは長らくこの青い帯が表示されていた

誰も、表立って騒いでいなかったけれども、みんな身近におきていることを理解することに必死になっていた

震災前は4月からは東京に戻ろうかと考えていたが、結果的に、地元の弘前市と災害時の助け合い同盟のようなものを結んでいた岩手県の野田村に復学するまで震災ボランティアに行くことになった

泥を掘って、どなたかの仏壇に飾られていたと思われる写真やクレジットカード等、遺留品を集めたり、

民家の床下から、土砂を掻き出す作業などをしていた

岩手県野田村

自分のその先の進路もわからなかったが、何がおきているのかも、さっぱりわからなかった

停電の時は、家中のキャンドルを大集結させた結果、季節外れのクリスマスな事態に…

 

もし、その後の未来が予測できていたら、

あの時、もっと違う選択をできていたのかなとか

タラレバを繰り返しながら、ぐるぐる歩き回っていたら

裏路地にひっそり佇む喫茶店に辿り着いた

カウンター式のその小さな喫茶店で

美人ママさんが出してくれた

コーヒーカップがとても可愛かった

カップの底を、覗き込んでみてみたら

 

Made in Czech Republic (チェコ共和国)

 

と書かれていた

 

何だか笑ってしまった

 

珈琲は、濃くて、苦かった

 

 

 

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