母の日ですね。

こちらは、勝手に本日は休業日とし(全部、明日以降に特急でやりますw)、
ハッピーターンでハッピーな気分になりながら、映画版だけでは飽きたらず、アニメ版「舟を編む」を観て号泣していました。笑

お話の中でも出てくる、この

「間に合わなかった」

という一言…

 

ひどい没頭癖及び、時間感覚の無さから、何かといつも時間には間に合わない私ですが、
遅れながらも、なぜか飛行機や試験には間に合い(何で乗せてくれたり合格だったのかは不明)
人々の寛大すぎるお心のおかげで、何とか乗り切ってきておりますが、
一度だけ、本当に間に合わなかったことがあり

過ぎたことはどうしようもないとわかっていても、

やっぱり、あの時、あとちょっと早ければって思うんですよね。
 
「作品は既にあるから、あんた代わりにやって。必要なことは紙に書いたから。」
 
まさか自分が病気になると思わず、一年以上前に、文化財施設の中の展示会場の抽選に当たったので予約してしまったという。

ガン発見当初、5年ぐらいと言われていた余命が、すごいスピードで短縮していくので、第一次イギリス留学を早々と切り上げ、帰国した2012年10月。

気がつけば、自分の実家からも遠い、田舎のホスピス(終末病棟)で、泊まり込みで看病する生活が始まり…

そんな時に渡されたのが、その“必要なことが書かれている”はずのA4のメモパッド

元々、この人は、本当にA型なのか!??と疑いたくなるくらい、かなりの部分が大雑把で、てきとうな人物であるのは重々承知していたつもりではあるが

そのメモパッドには、見事に何も必要なことが書かれておらず

絶対に飾って欲しいという何らかの作品タイトルらしきものがいくつか書かれているだけで…

予算は?? 額装は?? DMは??ポスターは?? 受付は??設営は??作品価格帯は????
てか、私一人で!???

この人は未だに、絵画展というものは、とりあえず絵を壁に引っかければ何とかなると思っているのだろうと思いました。(過去に東京での展示ドタバタに何回か巻き込まれました…が、今は自分も似たような感じなので何も言えないですw)

時、既に、10月末。
絵画展は12月上旬スタート。
約1ヶ月。。

もう無茶はしないと、留学先であったイギリス南部の海の見える街で決意したはずが…

Brighton, UK

そんな決意は帰国、数週間後にして吹っ飛び、

平日は私、週末は父が交代で看病していたので、まずは、週末に帰宅した時に、紙に書かれている作品を探すことに

実家を離れて既に6年以上が経過していたこともあり、物の置き場所などわかるはずもなく、

それ以前に、そもそも屋根裏部屋は昔からジャングルであり、

至るところに作品(額なしの原画)が挟まっており、

やっと発掘した、大小含め100点以上の作品には、

そもそもタイトルも制作年も何も書かれていないという…

どうやって名無しの作品をリスト化すればいいのか??

当時は、なぜ、この母から、こんなに几帳面でしっかり者の私が誕生したのか非常に疑問を感じていました(その数年後、自分も実は自分が思っていたような人ではなかったと気がつきましたがw)

屋根裏のフェアリーランド

一刻も早く、額装屋さんに額装を依頼しないと間に合わない。

週末は家中、作品探し&備品制作、

平日は母のベッドの上で、

タイトル聞き出し、個展コンセプト決め、DMポスター制作、搬入&搬出プラン作成、レイアウト決め、広報プラン…etc

病棟は22時には消灯してしまうので、お手洗いから漏れる光でパソコンをいじり、(何回か巡回の看護婦さんにバレてしまいましたが…)

目の前でどんどん骸骨みたいになっていく人をお風呂に入れたり、ゴロゴロ転がしたり、
水を飲ませたり食べられそうなものを探しながら、
額装屋さん、印刷会社さん、ギャラリーさん、設営の手配…をしていたのですが、

11月上旬の時点で

当の本人が、全然、あと数ヶ月生きている雰囲気ではなくなり、

案の定、先生に、

「月末か来月上旬ぐらいまで」と言われ…

もはや会話もまともにできないくらい苦しんでいる人に、YESとNOのカードを持たせて、意思表示をさせ…
(今思えば、やっぱり私はどこか空気が読めないorスパルタ精神があるのかもしれないですw)

病室で使っていたコミュニケーションカード

ポスター一つにしても、文字は、もっと薄い黄色がいいのか、影は1mm増やしたほうがいいのか、色味はもっとビビットにするのか、今思えば、どうでも良かったことなのかもしれないですが、

私はこの個展を、本人が生きているうちに、できる限り本人の希望通りの状態で、絶対に成功させる!!と思っていたので、

看病の隙さえあれば、本人の足のあたりの布団の上にパソコンを置いて作業に没頭していました

イラレが今よりもっと苦手だったので、全部写し紙手描き…笑

そんなある日、

“床擦れ”と言って、

寝たきりの人が同じ姿勢のままベッドに寝ていると、擦り傷のようなものができて骨が見えてきてしまうらしいのですが、

それを防ぐために、あんなに夜中、数時間ごとに、右にやったり、左にやったり、こちらとしては睡眠を諦めてできる限り動かしたつもりが

まさかの、その”床擦れ”がおきていて、

慌てて看護婦さんを呼び、何とかなりませんか?と尋ねるものの

処置をする気配はなく、

ただ、深刻な顔で、耳元で

「お父さんに今すぐ連絡を。」

と、言われ、どういう意味なのか、さすがの日本KY協会会長(自称)の私でさえもわかりました。

え、まだ11月中旬じゃないですか?

え、月末〜来月まで生きているのでは?

ポスターさっき入稿したばっかりなんですけど!??

と、思いましたが、

確かに、どう見ても、目を見開いてもがき苦しんでいる様子は、あと数週間生きている人には見えない…

大学で講義中の父に電話をし、

とりあえず、意識があるのかわからない母に向かって

これまで照れて言えなかった感謝の気持ちと、今後の自分の夢について一方的に宣言をし

夕方、父がやってきた

緊迫した病室に、辛そうな喘ぎ声だけ聞こえてきて

おかしいな、映画だと、病気で亡くなる人って、もっと静かに美しく亡くなっているのに、現実は、こんなにも、おぞましい光景なのかと。。
 
 
最期に、父に、

あ、り、が、と、う

と言う口パクらしきものをして、去って行きました。

幽体離脱でもして、天井にいるのではないかと思ったけれども(そういう約束をしていた)、

残念ながら、何もみえず…
 
後は、文化祭の後片付けでもするように、

約1ヶ月過ごした、そのお部屋からの撤収作業を始め
おじさんの車のバックシートで、ごろんと冷たく硬くなった人形のような母を抱えながら、

実家へ帰りました
 
 
次の日、

何も知らない印刷会社の社長さんが、

家に、出来上がったばかりの個展のポスター現物を持ってきてくれました


 
あと一日、早ければ…
 
「絵画展」を「遺作展」に修正せねばならないことになり…

めそめそ泣いている暇はなく、

葬儀屋手配、納棺、お通夜的なもの、火葬、葬式、お別れ会…
同時進行で、遺作展準備

怒涛の3週間後、

結果的に、一人では何もできず、合計20人以上のボランティアの方々にご協力していただき

無事、遺作展開催

オープン初日 2012年12月7日、

例年ならもっと遅く1月〜2月に降り始めるはずの大雪が、

なぜか、朝から、しんしんと降り積もり続け…

雪が降る日に生まれたから雪乃ってつけられたのよと、理由が単純すぎるとブーブー文句を母が言っていたなと。
 
あぁ、観にきてくれたんだ、と。
 
 
たった4日の間に、800人以上の方が、新聞やTVやラジオ、口コミで来てくださり、

生前はいつも私に、そもそもジャンルが違うのではないかと思われる公募展に絵を出しては審査員からの一言一言に傷つきよくいじけていた母(度を超えた天然ボケの持ち主でした)

透明になってでもいいから、見てくれていたらいいなぁと

ほら、やっぱ、お母さん、すごいよって
 
 
目に見える現実では間に合わなかった。

けれども、後にも先にも、間に合ったことにしたい思い出No.1…
 
 


 
■ご興味ある方
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http://moe-nohara.com (主な作品がみられます)